中村真の数奇なる生い立ち

昭和47年1月14日に、大阪府吹田市にて産声をあげる。
ちなみに、いとこの須美ちゃんも、同年同日生まれる。
偶然とはいえすごい事だ・・・。
邦楽家の父を持つ故に、小さい頃から音楽に親しみ、4才からピアノを始める事になるのだが、最初の先生には行儀が悪い事を理由に、一度もレッスンを受ける事なく破門される。
次に習った先生のもとで研鑽を積むのだが、そこで天歩の才能を開花させる。

小学2年のころに、専門的な先生に変わるのだが、天真爛漫な性格が災いし、先生の細かい教授に嫌気がさし、またまた先生を変える。
変わった先生が、夙川に住む竹内寛子先生という方で、僕の恩師といえる。
この人の元で研鑽を積む。

小学6年のころに、有料のコンサートに初めて出演する。
細かい内容は忘れた・・・・。
モシュコフスキーの何かの曲を弾いたような気もするが。

小学生中学生時代は、バルトークやオリビエメシアン、ストラビンスキーに傾倒しており、当然、おにゃんこに夢中な周りの子供達と話が合うはずもなく、終始孤独であった。
特に好きだったのがバルトークで、ヴァイオリンコンチェルトの1番は今でも暗唱出来る。

高校に進むのだが、バカだったので、作用音大の音高に進む道を考えるのだが、周りの反対に合い断念。
そんなに若い時から、進む道を限定するような高校に進む必要はないと説得される。一応納得。
そして、関西大倉高校という下らない高校に進む事になる。

中庸の中をもってよしとする校風は、当然僕に合うはずもなく、勉強もせず、友達も作らず過ごした。
年間30日以上休めば留年という事だったので、きっちり年間30日休む。
へそ曲がりだったので、受験に関係のない生物や政治経済の試験を思いっきり勉強して、その科目だけは学年で一番になったりする事に楽しみを見い出したりしていた。
英語や世界史等は学年のびりっけつであったが・・・。

面白いエピソードとしては、英語の和訳で、パーティーの事を「パーちー」と書き、頭の悪い先生に鼻血まみれになる程殴られた事がある。
後で知った事だが、その先生は子供が生れ掛けでいらついていたそうだ・・・。

しかしながらジャズという音楽に出会ったのは高校時代だった。
父親のもっていたオスカーピーターソンの「We get request」というアルバムのテープを聞き感銘を受け、ジャズに傾倒する。
そして、ピーターソンの真似事からジャズ人生をはじめた。

高校時代の、抑圧された経験は、のちの音楽人生に絶対に生きているとも思う。
ほのぼのとした自由な校風の高校に進んでいたら、ピアニストとしての研ぎすまされた感性を磨く事は出来なかったであろう。
そういう意味では、あの高校に進んだ事は意味があったのだろう。
将来生まれて来るだろうわが子には決して進んで欲しい高校ではないが。

そして、同級生達が次々浪人する中、現役一発合格で大阪音楽大学に進む事になる。大学時代は周りに変なやつしかいなかったので、僕が特別孤独な思いをする事もなかった。
それどころか、人生の終末まで一緒にいるだろうなと思える友人を見つける事が出来たのも大学時代だ。

初対面の河村英樹に対して、伝説に残る一言を残したのもこの頃だ。
「自分テナーやるん?ほな、史上の愛やろか、ワン、ツー・・・」
又、自己のトリオを結成し、ベーシストに在日朝鮮人の、現在は作曲家の高昌帥(リンク参照)をむかえ、初めてのトリオに外人ベーシストを使った驚異のピアニストとなる。

DJOという大阪音大のビッグバンドにも参加。
山野等のコンテストには出ないバンドだったので、全国的には知られていないが、OBには超一流プロミュージシャンだらけである。
当時バンドにも、河村英樹をはじめ、現在NYで活躍の植田典子b、早間美紀p、BBBBの面々やらキムサクの溝口恵美子や木村知之といった、現在はそうそうたるプロとしてやっているメンバーだらけであったが、ビッグバンドフェスティバル等に出演すると一番へたくそであった。

大学を2年で名誉卒業すると、そこから一応プロのピアニストとしての生活が始まる。
参加したバンドは

服部利一tsカルテット
中島教秀b下克上オールスターズ
ずっきんバンド
江の口美穂withジェントルメン
又、自己のトリオとして
植田典子b、東敏之ds〜荒玉哲郎b、竹田達彦ds
他にも綾戸智絵のレギュラーピアニスト
等等。
共演ミュージシャンは、関西のプレイヤー総てと言ってもいい。

そして、1998年頃、自己のトリオの運営が困難になったある出来事があって、上京を決意したのであった。
というより、その頃は大阪での音楽活動は完全に休止状態で、殆ど誰とも仕事をしていなかった。というより誰も呼んでくれない状態になってしまい(業界用語で言うと、干されるという状態)、講師の仕事で細々とくいつないでいたのであった。

そういう情況を打破し、キムサクを売れるバンドにしようとの企みをもって上京を決意したのであるが、占いによると(六星占術)引っ越しは厳禁との事で、2年後の上京と言う事になってしまった・・・。

上京を決めてからの2年間は、たまに東京のミュージシャンが来た時に共演する以外は、ほんとうにキムサクか、キムサクに関わるミュージシャンとのライブ以外をせず過ごす。

そして、上京。

上京の時に、自転車に乗って野宿しながら東京に移動した事は以外に知られている事実だそうだが、ここに書いておく。

そして、東京にでてきて最初の仕事が過酷であった・・・。
在阪中から知り合いであった川嶋哲郎から、まだ在阪中に「中村君ってさ〜〜、東京出て来るって前に言ってたけど、○月×日ってもう東京に出てきてる?」との電話を貰ったのだが、その仕事が川嶋哲郎のアルバムのレコ発ライブで、辛うじて力武誠とは共演した事があったが、ベースの安ヵ川大樹とは初共演のうえ、場所もサムタイム、昼間営業のお店なので、リハーサルがきっちりとは出来ず、全て初見でむっずかしいオリジナルの曲を演奏しなくてはいけなかった。
しかし、そのライブで、川嶋氏や安ヵ川氏の信頼を得たものと僕は思っている。

そして、そのライブに来ていたレコード会社のプロデューサーの目に止まった(のかどうか解らんが)、リーダーアルバムを作りませんかと声をかけて頂き、それを丁重に辞退し、その機会をキムサクにまわす。


その後の活動はウェブで公開している通りでございます。

 


 

公式にはこんなものか??

1972年大阪生れ
幼少のころより音楽に親しみ、絶対音感を身につける。
大阪音楽大学入学と同時にジャズピアノを始める。
学生時代よりプロとして京阪神のジャズクラブに出演する。
2000年活動の拠点を東京に移す。
これまで数多くの著名ミュージシャンと共演。

現在、綾戸智絵voグループ、石崎忍asカルテット、川嶋哲郎tsデュオ、安ヵ川大樹bトリオYa!3等に参加。

又、2002年10月に、自己のプロデュースするポップアバンギャルドジャズグループ「キムサク」のファーストアルバムをリリースする。

 

 





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